五條楽園の南限は正面通とされています。 正面通の名称は、豊臣秀吉が造営した「方広寺」の大仏殿の正面につながる通りであることに由来します。正面橋越しにみる五條楽園 かつての「方広寺」は五條楽園から正面橋を東へ超え、正面通の突き当りにありました。 方広寺は、豊臣秀吉が天正14年(1586)に京都東山山麓に建立することを思い立ち、現在の方広寺・豊国神社・京都国立博物館の3か所を含む南北約260メートル、東西210メートルの広大な敷地に高さ約49メートル、桁行約88メートル、梁行約54メートルという東大寺よりも大きな大仏殿を文禄4年(1595)頃に完成させたのです。 しかし、慶長元年(1596)閏7月に起きた慶長大地震により開眼供養前の大仏と築地が倒壊し、慶長3年(1598)8月には秀吉の容態悪化によって善光寺へ阿弥陀如来を返還、同月18日秀吉が死去し、秀吉の死は外部に伏されたまま、慶長3年(1598)8月22日に大仏のない大仏殿で開眼供養が行われたのです。 その後、秀吉の遺志を継いだ秀頼が大仏の再建に着手しましたが、慶長7年(1602)鋳造中の大仏が出火炎上しました。 慶長13年(1608)秀頼は再度大仏再建を企画し、ついに慶長17年(1612)に完成したのです。 この時の再建に貢献したのが角倉了以という豪商です。 了以は慶長13年(1608)に幕府の許可を得て保津川(大堰川)の開掘を行い、これにより丹波の農産物や材木が京に運べるようになりました。 同年に大仏殿再興のための資材や木材の運搬の命を受け、了以は鴨川(鴨川運河)で運ぶことを考え鴨川を開削します。 しかし、大坂からの資材を鴨川の水運で運ぶのは予想以上の困難な事業で、了以はより良い水運として京と伏見を結ぶ高瀬川の開削を願い出たのです。 鴨川と高瀬川の水運を切り拓いた了以こそ五條楽園の発展の礎を築いた立役者で、そのきっかけは秀吉が方広寺の造営を思い立ったことによるのです。----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- 現在は方広寺大仏殿跡に豊国神社があり、裏に大仏殿の須弥壇跡が公園として整備されています。 豊国神社の創建は、秀吉死去の翌年の慶長4年(1599)に方広寺東方の阿弥陀ケ峰山頂に遺骸が埋葬され、その麓に廟所を建立したことに由来しますが、慶長20年(1615)に豊臣宗家が滅亡すると、徳川家康の命により廃絶されました。 しかし、明治天皇により再興を布告する沙汰書が下され、明治13年(1880)方広寺大仏殿跡の現在地に社殿が完成し、桃山城の遺構とされる唐門(国宝)も南禅寺金地院より移築されました。豊国神社の国宝唐門豊国神社から正面通を見返す。かつては五條楽園まで臨めたことでしょう。五條楽園から鴨川を挟んで東側には、秀吉に関わる文化的遺構も多く残されているのです。