「六條河原」は現在の五條大橋から正面橋までの鴨川の河原を指し、五條楽園はこの西岸に位置します。 ここは平安時代の末期である平治元年(1160)に発生した政変「平治の乱」の主戦場となり、源義朝と藤原信頼の連合軍が平氏軍に敗退しました。 この戦いは「六條河原の戦い(六波羅合戦)」と言われ、敗れた義朝と信頼は間もなく殺され、朝廷における源氏勢の力は一気に衰え、平清盛が昇進し、平氏政権の樹立に至ったのです。 また、この六條河原は古くから時の権力者に反抗した者が処刑される"処刑場"でもありました。 保元の乱における源為義・平忠正、平治の乱における源義平・藤原信頼、治承・寿永の乱(源平合戦)における平能宗・藤原忠清、山崎の戦いにおける斎藤利三、関ヶ原の戦いにおける石田三成・小西行長・安国寺恵瓊、大坂の陣では長宗我部盛親・豊臣国松らをはじめとする豊臣方の残党など、著名な武将や政治家らがここで最期を迎え、処刑後に首級は三条大橋のたもとに晒されたのです。 六条河原の刑場で祀られていたと伝えられる「駒止地蔵(首斬地蔵)」は、五條楽園から河原町通を挟んで西にある蓮光寺に祀られています。 この地蔵は、弘法大使の作ともいわれ、もとは鴨川の氾濫で埋もれていたのを、平清盛の乗る馬駒が六條河原に差し掛かった時、急に馬が動かなくなり、その場所を掘ってみると地蔵がでてきたことから、駒止地蔵と呼ばれるようになったといいます。 また、この駒止地蔵は、盗賊に襲われた篤信者を護り、身代わりになって首を切られたことから「首斬地蔵」とも呼ばれるようになったと伝えられます。富小路六條に所在する蓮光寺。大坂夏の陣で敗れ、六條河原で処刑された長曾我部盛親の墓があります。 蓮光寺周辺は「下寺町」と呼ばれ、現在でも寺院が密集しています。 豊臣秀吉は京都の都市計画として寺町通と寺之内通、富小路通の五條から六條間に寺院を集めました。 遊所として発展した五條楽園界隈は、太古から血生臭い歴史が刻まれていましたが、祈りが捧げられる寺院街とも隣接するようになったのです。